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東京高等裁判所 平成2年(う)1249号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人両名は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人仲田晋、同篠田龍谷各提出の各控訴趣意書、同補充書に、これに対する答弁は、検察官川平悟提出の答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。各控訴趣意は、原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認、訴訟手続の法令違反及び量刑不当があるというのである。

そこで、まず事実誤認の主張について判断する。

所論は、要するに、原判決は、被告人両名に対する本件公職選挙法違反被告事件につき、有罪の認定をしたが、これは、被告人両名及び受供与者とされる者らの捜査段階における自白等の任意性、信用性の有無及び証拠価値の判断を誤ったことに基づくものであり、その結果、前提事実、共謀事実及び現金供与の各事実について、事実誤認を生じているというのである。

以下所論に即し、関係供述の任意性、信用性についての吟味を含めて、原判決の事実認定について検討を加えることとする。

一  本件会合にいたる経緯について

原審及び当審において取り調べた関係各証拠によれば、次の各事実が認められ、これらの事実については、当事者双方とも、特段の争いはない。

(一)  被告人両名は、昭和六一年六月(以下特に断らないかぎり、月日はいずれも昭和六一年をさす。)当時いずれも長野県飯田市の市議会議員であり、衆議院議員Nの後援会である明鳳会の会員であった。

(二)  六月二日に衆議院が解散され、七月六日に衆議院議員の総選挙が施行されることになったが、Nも立候補を予定していたため、六月ころから総選挙に向けての明鳳会の後援会活動も次第に活発となり、Nを支援するための組織作りの一環として、下伊那地区の市町村議会議員により明鳳会議員団も結成されるに至った。

(三)  六月一〇日には、本部事務所において、この議員団の発会式ともいうべき会合が持たれ、役員人事のほか、支部対策の打合せも行われた。そして、その後の飯田市の市議会議員らの集まりで、同市議らがそれぞれ分担を決めて、明鳳会本部の立場で下伊那地区の市町村の各明鳳会支部を歴訪し、各支部の情勢等を把握するとともにこれを激励し、来るべき衆議院議員選挙に備えての後援会活動の一層の活発化を図ることになったが、被告人両名は、いずれも高森町、松川町、上郷町を対象とする北部地区を割り当てられ、これを担当することとなった。

(四)  他方、明鳳会高森支部では、本部から支部活動の立ち遅れを指摘され、早急な取組みを督促されていたが、それでも六月初旬には、高森町〈番地略〉所在の北部自動車サービス元整備工場の建物を借り上げ、これを同支部の選挙対策事務所とすることとし、同月八日には周辺の草取りもすませ、同月一三日に事務所開きを行う段取りとなった。そのため、支部選対の役員人事を急ぐ必要があり、同月一一日に支部の幹部役員らが集まり、小人数の役員会を開催することとなった。

(五)  当夜は、支部長のA及び事務局長のEが手分けをして声を掛けた者のうち、高森支部の選対幹事長予定の原賢、吉田支部長の宮島豊、上市田支部長の北原康臣らは、都合で参集できず、右のA、Eのほか、山吹支部長のB、同副支部長のC及び高森町議で高森支部の選対副幹事長に就任することが予定されていたDの計五名が集まり、午後八時ころから議事に入った。

(六)  明鳳会本部では、先に述べたとおり、各支部に担当の飯田市議を派遣することとしていたが、高森支部長のAと連絡をとって、この集まりに担当市議を出すこととし、被告人両名のほか、関島一郎、池上一雄の両市議にも当日の支部回りを依頼した。

(七)  被告人乙は、当日午後六時三〇分ころ、明鳳会本部事務所から関島、池上の両市議とともに宮崎勲運転の乗用車に乗って高森支部に向けて出発し、途中、座光寺支部の近くで被告人甲を同乗させ、午後七時ころ高森支部事務所に赴いたが、まだ事務所が閉まっていたため一旦座光寺支部に戻ることとなった。そして、被告人両名は、所用のある関島、池上両市議と同所から別行動をとることとし、午後八時三〇分ころ、前記宮崎運転の乗用車に乗って、再び高森支部事務所を訪れ、午後九時ころまで、支部役員らと協議、懇談を重ねたが、この間、運転手の宮崎も終始その場に同席した。

以上の認定は、原判決が前提事実として摘示するところとほぼ同様であるが、(五)ないし(七)の各事実については、所論指摘のように、(1) 当日の高森支部役員会の参会者は、予め本件の受供与者とされる者ら五名に限定されていたわけではなく、少なくとも、被告人両名は、高森支部事務所で参会者と顔を合わせるまでは、参会者の顔触れ、人数等についてなんら承知していなかったこと、(2) 当夜、本部からこの会合に出席したのは、現実には被告人両名のみとなったが、当初は関島一郎及び池上一雄両市議も同行しており、同支部の会合が被告人らの考えていたように午後七時ころから始まっていれば、両市議もこれに加わる予定であったこと、(3) 運転手の宮崎も外で待たず、支部事務所の中に入り、会議そのものには加わらなかったものの、終始その場に同席し、中での状況を目撃していたこと等の事実が認められる。原判決においては、これらの事実が「前提事実」として摘示されていないが、その重要性に照らして、改めてここに摘示しておく必要がある。

二  本件捜査の端緒について

前記の関係各証拠によれば、六月一一日に高森支部事務所で開かれた本件会合の内容を直接知る者は、被告人両名及び高森支部の役員ら五名及び同席した運転手の宮崎の計八名に限られるのであるから、これらの者が秘密を守り、他に漏らさぬ以上、本件犯行は、仮に行われたとしても、いわば密室の犯罪として隠蔽され続けてもなんらおかしくはないものであった。ところが、投票日の翌日から開始された捜査本部の本件に対する捜査は、当初からその対象を右の役員ら五名に絞り(ただし、Dは、北海道旅行中であって、取調べは旅行から戻った後となる。)、しかも、買収事犯の被疑者として取調べを行っているのである。所論は、この捜査の端緒について疑問を提起し、被告人両名及び受供与者とされる者らに対する本件捜査は、いわゆる密告、投書等の根拠の定かでない「情報」をもとにした徹底した「見込み捜査」であり、しかも、その情報は、被告人甲と対抗関係にあった、いわゆる「政敵」などから出た疑いがあるにもかかわらず、原判決は、この点について十分な考慮を払わず、関係者らの供述の任意性、信用性を安易に肯定した点に問題がある旨主張する。

そこで、検討するに、司法警察員警部補森川清の当審証言及び受供与者らを被告人とする別件第一審における同人の証人尋問調書、同人及び林公雄各作成の捜査報告書等の証拠によると、(1) 本件買収事犯の捜査の端緒は、複数の部外協力者からの電話通報や聞き込みで入手した風評等であること、(2)飯田署においては、これらの通報等に基づき、投票日以前に既に、六月一一日夜明鳳会高森支部事務所において同支部役員会が開催され、本件受供与者ら五名が出席し、その会合に本部からも人が出て、金が配られたのではないかという嫌疑を抱いていたこと、(3)このような状況から、県警本部指揮の下に飯田署長を本部長とする捜査本部が飯田署に設置され、県内各署からも応援の刑事の派遣を得て、投票日翌日の七月七日からこの買収容疑等につき本格的な捜査が開始されたこと、(4)容疑事実は、本件買収容疑のほか、高森支部のいくつかの饗応事犯であったが、主たる捜査の目的はあくまでこの買収容疑にあったことなどの事実が認められる。

そして、捜査本部では、同日朝早くから、A、E、B及びCの任意出頭を求め、取調べに入ったが、前記森川証言によれば、本件についての捜査を開始するに当たっては、これらの情報以外に確たる証拠もなく、また、その信頼性を確認するための特段の裏付け捜査も行われていなかったものの、同支部の後援会活動については、饗応接待が各所で行われていることを掴んでいたことや本件会合が選挙を控えた時期における明鳳会の支部役員会としては最初の方であり、わざわざ本部から人が派遣されていることもあって、買収が行われることも十分ありうると判断したというのである。このように、本件捜査においては、部外協力者からもたらされた情報以外に証拠らしい証拠がないにもかかわらず、捜査が開始されたという意味では、「見込み捜査」の一面があることを否定するわけにはいかないし、前記森川証人が、捜査の秘密保持の観点から、情報源についての証言を拒んだため、情報提供者がいかなる人物であり、また、その情報にどの程度の信頼がおけるのかは認定のしようもないので、弁護人らの懸念するこれらの情報の危険性を、根拠のないものとして、にわかに否定し去ることも相当ではない。しかし、捜査の端緒はあくまでその端緒にとどまるのであって、その不確かさの故に、その後の捜査全体を論難し得るものではないし、このような部外協力者からの情報等に基づいて捜査を開始すること自体は、他の選挙違反事件においても往々にして見られるところであって、買収事犯捜査の密行性や証拠収集の困難性からして、やむをえない面がないではなく、本件捜査においても、この程度の嫌疑から捜査を開始したことを不確かな情報に基づく見込み捜査として、一概に排斥し、その捜査の結果を違法視し得るものではない。したがって、所論の主張をにわかに肯定するわけにはいかないが、捜査開始後、部外協力者から得た情報内容が確実なものであるとの前提に立って、被告人両名及び受供与者とされる者らの取調べにおいて、これらの者の弁解を十分に聴くことなく、執拗に追及したために、結果的に虚偽の自白をさせることになったのではないかという点については慎重に吟味する必要がある。

三  被告人両名及び受供与者とされる者らの供述の経過について

被告人両名及び受供与者とされる者らの供述の経過は、前記の関係各証拠によると、次のとおりであったと認められる。

(1)  長野県警察本部は、前記認定のとおり、七月六日の投票日後、部外協力者らの情報等に基づきそれまで内偵を進めてきた明鳳会高森支部役員らの買収事犯容疑につき、早速本格的な捜査に乗り出すこととし、翌七日、受供与者と目される高森支部の幹部ら五名のうち、北海道旅行中のDを除いたA、E、B及びCの四名に対し、飯田署への任意出頭を求めて、早朝から取調べに入った。その結果、A及びEの両名は、当日の任意取調べの段階から早くも、六月一一日の会合の席上で被告人両名から現金二万円入りの茶封筒を受け取ったという受供与事実を認め始め、その旨の供述調書や上申書が作成され、また、Bも、その日は受供与の事実を否定していたものの、翌七月八日の任意取調べ中に、A及びE同様受供与の事実を認めるに至った。そこで、同県警本部では、これら三名の受供与者らの自白に基づき、同人ら及び当日まだ否認を続けていたC並びに被告人甲の計五名に対し、八日午後八時過ぎから九時過ぎにかけて公職選挙法違反の容疑で相次ぎ逮捕状を執行した。

(2)  Aは、同月八日に任意出頭した際、冒頭、取調官に対して昨日話したことは取り消してほしい旨を申し入れ、一旦自白を翻す態度を示したものの、取調官の説得で、すぐに自白に戻るという一幕はあったが、その後は警察、検察庁での取調べに対し、終始自白の態度を変えることなく、これを維持し、同月一九日に釈放された後においても、なお取調べの都度、六月一一日夜の会合で被告人両名からの現金二万円の供与を受けたという受供与の事実を認め続けた。

また、Bにおいても、七月八日に自白して以後、一貫してその自白を維持している。

(3)  これに対し、Eは、七月七日に事実を認め、七月八日にも自白調書二通が作成されているものの、七月一〇日の勾留質問時から否認に転じ、同月一五日に再び事実を認めるが、翌一六日の検察官の取調べから再度否認の態度をとり、以後数日にわたって否認を続け、同月二〇日の司法警察員の取調べの時からまたもや自白に転ずるという二転三転の供述態度をとった。

また、Cも、同月九日から受供与の事実を認めるに至ったが、途中、同月一二日及び同月一六日から二〇日までの間、二度にわたって否認に転ずるなど、最終的には自白に終わっているものの、極めて変転の多い供述態度を示している。

(4)  北海道旅行中のため、逮捕が遅れていたDも、同月一二日、旅行の帰途辰野駅で逮捕され、以後逮捕直後の弁解録取時から同月二四日まで否認を続けていたものの、翌二五日に自白に転じ、その後は自白の態度を変えることなくこれを維持し、同月三一日に釈放された。

(5)  他方、供与者とされる被告人両名についてみると、被告人甲は、前述のとおり、七月八日に逮捕されたが、供与の事実について否認を続け、勾留延長後の同月二六日に至って一部自供を開始したものの、その趣旨は、当日会場で被告人乙から渡された茶封筒を高森支部役員ら五名に配ったこと及び封筒の中は見ていないが、金が入っていることは分かっていたというにとどまり、事前の謀議や自ら五万円を拠出したことについては、最後までこれを否定している。

また、被告人乙は、受供与者とされる者らに対する取調べ開始時にはアメリカ旅行中であり、帰国後の七月一五日に逮捕され、取調べが開始されたが、否認を続け、同月二九日に初めて共謀の点を中心として、一部供与の事実を認めるに至った。しかし、その自白内容は、全面的なものではなく、飯田市役所議会棟二階の明政会控え室において、被告人甲と相談して、高森支部を訪問する際に手土産代わりに若干の金員を配ることを決め、ちょうど所持していた現金五万円を被告人甲に手渡し、後は同人に任せたという程度であって、供与の事実については、僅かに、同月三〇日、警察において、被告人甲が茶封筒を高森支部の人たちに一枚ずつ渡した旨を供述するのみであり、検察官に対しては、「甲君がその会合の席で金を配るのは勿論承知しておりました。甲君がその場で金を配った事は知らんとは言えません」といったあいまいな供述にとどまり、更に、翌三一日には、一旦認めた共謀や現金五万円の拠出についても、再び否認に変わり、以後否認のまま取調べを終わっている。

このように、本件関係者らの供述状況を見ると、A、B、Eの三名においては任意捜査中から、また、Cにおいても逮捕の直後から自白をするなど、いずれも取調べの初期の段階から早くも自白を開始し、特に、A、Bにおいては、その後も自白をほぼ一貫して維持していることが注目される反面、E、Cの供述においては、自白と否認が繰り返され、変転きわまりなかった点に特色があり、更に、被告人両名とDが相当長期にわたって否認を続け、被告人両名においては最後まで否認の部分が残ったことも見逃せないところである。これらの供述の任意性については、取調官に暴行、脅迫等の特段の違法行為が認められないこと、多くの者の自白が取調べの開始後間もない時期から始まっていること、被告人両名及び受供与者とされる者らの社会的地位・分別・選挙経験等から見て、自白をすることの利害損失あるいは他に及ぼす影響などを十分に承知して供述していると思われること、捜査中から弁護人の接見を相当頻繁に受けていたことなどから、これを肯定するのが相当であるが、その信用性については、各人の供述の態様、変遷の経過等、前記の諸事情を念頭におき、慎重に判断する必要があるといわなければならない。

四  事実認定上の問題点について

このような観点から、被告人両名及び受供与者とされる者らの自白について、その内容をつぶさに検討すると、所論も指摘する多くの不自然、不合理な内容が見受けられるのである。これらの諸点を以下に指摘することとする。

(一)  共謀の点について

所論は、要するに、原判決は、被告人乙の自白を採用し、原判示の日時場所における被告人両名の共謀を認定しているが、現職市議の地位にある両名が右の自白にあるような、軽々しい動機から本件犯行を敢行するわけもなく、自白内容自体が不自然、不合理であり、これを唯一の証拠として共謀を認定した原判決は、この点において既に事実誤認を免れないし、また、共謀の日時、場所についても、原判決は、被告人両名が六月一一日午後七時ころ座光寺支部で首尾よく落ち合うためには、両名間でその旨の打合せがなされる必要があるが、当時の両者の日程からいって、その機会は社会委員会協議会終了後の明政会控え室をおいてほかに考えられないとして、同日午後一時ころ同所において被告人甲と謀議を遂げた旨を認定しているが、そのような事実はなく、仮に同所で被告人両名が顔を合せる機会があり、落ち合う時間、場所をそこで決めたとしても、そこからその場で供与についても謀議がなされたと推認することは事実認定として飛躍がある旨主張する。そこで、以下これらの点についての乙自白をみると、その大要は、次のとおりである。

(七月二九日付検面調書)

甲君に「いくらか銭がいるかなあ、そっちの方の様子はわからんか」と言うと、甲君が「そうだなあ、いくらかどうだなあ」と答えて金を用意して行こうという私の考えに賛成致しました。(中略)私が金まで持って高森地区にはっぱをかけに行ったのは、高森地区に対しては、伊那の宮下創平の切り込みが激しくえらく大変だと聞いておりましたから高森支部の役員はよその支部よりも大変だろうと察しまして、その大変なところを曲げて票集めを頼むのには手ぶらというわけにもいかないと考え、手みやげ位は持って行って一杯飲む位の御礼を差し上げようと考えたからでありました。

(同月三〇日付員面調書)

甲君に、「初めての支部廻りだから手ぶらで行っても体裁が悪いがどうする、ちょっとばかり持っていった方がいいな」と現金を持っていく意味の相談を掛けたのです。甲君もこの相談にのってくれたので、(中略)Nを当選させるためには金をまいて票を集めてもらわなければという気持ちがあったはずです。

(同月三〇日付検面調書)

二人だけで、その日訪れる事になっていた高森支部に金を持っていって配ろうと話合ったのであります。昨日申した事のほか私が「どうだ、お茶菓子代位あったっていいじゃないか」と言って金をやろうと話合いました。

これらの調書によると、被告人乙が、「初めての支部廻りだから手ぶらで行っても体裁が悪い」、あるいは、「どうだ、お茶菓子代位あったっていいじゃないか」という程度の持ちかけ方で、参会者に対する現金供与を被告人甲に提案し、同被告人も、このような提案に対し、なんらの疑問も差し挟むことなく、軽々にこれに賛同したということになる。しかし、被告人両名とも現職の市議会議員であり、特に、被告人甲は、次回の県議選の立候補予定者にも擬せられており、行動には特に慎重さが求められていた時期でもある。被告人両名において、かりにもこのような挙に出ようとするならば、もっと慎重に謀議を重ね、本部の意向、頼まれもしないのにこのようなことをすることの是非・得失、とるべき手段方法、発覚の危険性等について十分に検討した上で決行するのが通常であろうと思われるが、前記の各調書によれば、被告人両名には、そのような慎重な態度がまったく欠けているのであって、いかにも不自然というべきである。また、被告人乙の前記各検面調書には、被告人乙が高森支部役員に現金を供与することを思い立った理由が詳しく述べられているが、これらの事柄は、被告人甲には告げられてなく、明政会控え室での前記のような慌しい会話だけで、このような被告人乙の意図するところが被告人甲に伝わるかどうかも疑問の持たれるところである。被告人両名がいくら気心の知れた仲だとしても、常識的に考えれば、前記のような会話にとどまれば、相談を持ちかけられた方としても、それこそ、手土産代わりの金一封程度のことを考えるのが自然であると思われる。

これらの点を総合すると、被告人乙において、このような思い付きにも近い軽々しい動機から、現金供与の提案をするかどうか疑問であるばかりでなく、被告人甲において、被告人乙から前記のような相談を持ちかけられ、これを了承したとしても、果たしてこれで高森支部の役員たちに対する投票及び投票取りまとめの依頼の趣旨での現金供与の謀議が成立し得るかは、すこぶる問題であるように思われる。

被告人乙の七月二九日付検面調書によれば、同被告人は、本件会合の前日である六月一〇日に高森支部の担当とされ、同じく高森支部担当とされた被告人甲及び関島市議とともに、同支部を訪れることが決まっていたとして、同支部だけが関心事とされ、被告人甲との謀議においても、高森支部のみを念頭において金を持っていく話をしたとされているが、果たして客観的状況がそのようなものであったのかは、甚だ疑問である。つまり、これら三人の市議は決して高森支部のみを担当していたわけではなく、広く北部地区全体を担当することになっており、翌一一日の支部訪問も、予定としては、同支部のみを考えていたわけではないようである。被告人乙の認識としても、同被告人が高森支部のみを訪問することを考えていたかどうかは疑問である。

いずれにせよ、被告人甲は、どことどこに持って行くかも、被告人乙の「お茶菓子代位」という言葉と渡された五万円という金額のそごについても質問することなく、それどころか、更に自分もこれに上乗せして、高森支部の役員たちにだけ個別に二万円ずつを配るという買収行為をやってのけたことになるが、このような現金供与の共謀が前記の会話から成立するとはいささか考えにくいところである。

また、被告人両名の自白は、それぞれ自白とはいっても、内容的に相反するものがあり、互いに責任をなすりつけ合うものとなっているが、このような共犯者らの自白に往々にして虚偽の自白が見られる場合があることは、裁判所に顕著な事実であって、少なくとも、いずれか一方に、あるいは双方に虚偽内容が含まれている危険性があることは、所論指摘のとおりであり、結局において、共謀の点についての証拠が質、量とも極めて不足していることは、否めない事実である。被告人乙の前記各検面調書においては、その供述の不十分さを、(1) 自分は細かいことをごたごた言うのが嫌いなので、いくら配るかは甲君に一切任せたつもりでいた、(2) 二人はかねてから非常に仲よく気心がわかっていたので、これだけのことをいえば、後は甲君が万事巧くやってくれると思ったとして、被告人乙の気質や両者の信頼関係の問題として説明しているが、被告人乙の自白の不十分さや被告人甲の供述との矛盾は、被告人乙のこのような説明で納得できるような問題ではないと思われる。

次に、共謀の日時、場所であるが、原判決が論断するように、被告人両名間で座光寺支部で落ち合うことを打ち合せるための機会は、社会委員会協議会の終了後の明政会控え室しかなかったといえるのかは、慎重に検討を要するところである。つまり、原判決は、被告人甲の「午後一時半から二時の間に、本部で乙、関島一郎と三人で相談した」旨の供述(七月三一日付検面調書)や原審における同被告人の供述は、関島の検面調書に照らして信用しがたいとした上で右の結論を出しているが、被告人両名が明政会控え室で直接打合せをしなくとも、明鳳会本部が各議員の支部訪問のスケジュールを調整していた様子が窺われるので、被告人甲が別件第一審の証人尋問において述べているように、高森カントリークラブで開かれたゴルフコンペに出掛ける前に本部に立ち寄った際、当夜の支部回りを依頼されてこれを承知し、差し回しの車に座光寺支部で拾ってもらうことになったのだとしても、被告人乙と午後七時に同支部で落ち合うことは十分に可能だからである。明鳳会の支部対策局長をしていた久保田元も、被告人甲が昼ころ事務所に来て、「俺は座光寺に居るから何かあったら座光寺に連絡をよこしてくれ」と言っていた旨を供述しているし(同人の検面調書)、当初高森支部に同行した関島、池上の両市議も、関島においては、「議員仲間と選挙情勢を話し合い、夕飯を食べてワーワー言っているうちに、配車係りをしていた中島という男からチラッと行く先を書いたメモを見せられ、先生今日行かれるかと聞かれたので、いいよと返事をしておきました」(検面調書)旨の、池上においては、「久保田局長から、今日の夕方都合がよかったら乙議員、関島議員と三人で上郷、座光寺、高森に廻ってくれないか、と言われたのです」(員面調書)という供述をそれぞれしているのであって、これからみても、本部の手配の下に各市議がそれぞれ支部に派遣されていた様子が窺われるのである。また、運転手の宮崎も、配車係りの前記中島から、出発に当たってその日の予定表を渡されるとともに、座光寺支部に寄って、被告人甲を乗せて行くことを指示されているのである(同人の七月二五日付検面調書)。このような点にかんがみると、原判決の前記論定は、いささか性急に過ぎるといわざるをえないし、更に、そこから、乙自白を信用し、その場で現金供与に関する謀議も行われたと認定したことは、所論指摘のとおり、認定の過程に飛躍があるというべきである。また、被告人乙は、取調官に対して当日の社会委員会協議会の終了後、明政会控え室に入ったのは被告人両名のみであり、二人のほか誰もいないところで現金を持って行く話をした旨供述しているが、原審証人沢柳弁治郎及び同実原裕の各供述によれば、社会委員会協議会のメンバーは、八名のうち五名が明政会所属の議員であって、右両名も当日の協議会終了後、他の明政会所属の議員らと一緒に控え室に入り、またどやどやと出ていったということであって、この点からすると、右控え室は、被告人両名が二人だけで現金供与に関する密談をしたり、現金を手渡したりするその前提となる内密の打合せ場所としての客観的状況を欠いていた疑いが強いように思われる。

(二)  犯行の動機について

原判決も摘示するように、(1) 七月六日施行の衆議院議員選挙は、参議院議員選挙との同時選挙であったが、解散はあるまいという大方の予想を覆しての慌しい解散選挙であり、しかも、農繁期の忙しい時期とぶつかったこともあって、N派陣営においても、当時まだ十分な選挙対策組織ができていなかったこと、(2) 今回の選挙は多くの対立候補の出馬が予想されていただけに、明鳳会本部においても危機感を募らせ、後援会各支部の組織固めを急いでいたことが認められ、(3) 特に、高森地区は、対立候補の食い込みが激しく、対策を急ぐべき重点地区の一つとされていたことも間違いない。このような選挙情勢が背景にあったということは、犯行の動機を考えるに当たっても十分考慮されなければならないが、慌しい選挙で選挙対策組織が十分にできあがっていないという点は、N派だけのことではなく、他の各立候補予定者にも多かれ少なかれ共通することであり、組織の引き締めのために実際以上に危機感を煽るということも、各派陣営の常套手段であってみれば、N派陣営の置かれた状況が本件各自白にあるほど実際に深刻なものであったかどうかは十分吟味する必要がある。前述のように、高森地区は宮下派の食い込みが激しい地区であったのに、選挙事務所の確保が他の支部より出遅れていたため、本部でも早期の事務所開設を督促していたようであるが、高森支部の役員たちも、その点は認識し、前記一、本件会合にいたる経緯(四)において示したように、鋭意事務所捜しに努め、本件当時既にこれを確保し、同月一三日には事務所開きを予定していたのであって、このような高森支部の出遅れが、被告人両名の重大関心事となって、同支部役員を督励するためには現金供与もやむなしと決意させるほどのものであったとも思われない。明鳳会副会長で、この回の衆議院議員選挙においてN選対委員長を勤めた、飯田市議会議長の松島健次においても、「北部の松川や高森等に対して特別何をしなければならないという状況はありませんでした。」と供述しているのであって(同人の員面調書)、選対の相当の地位にある者ですら、北部地区について別段の危機感を抱いていなかったことが窺われるのである。ましてや、本件会合の前日に北部地区担当に決まったばかりの被告人両名が同地区特に、高森地区にしぼって危機感を抱いていたとも思われない。当日高森支部の役員たちを相手として被告人乙が話した選挙情勢に関する話の内容も、下伊那地区全般の厳しい情勢に関する話が主体であって、特に高森地区に限定しての状況説明もないのである(Bの七月一二日付検面調書等参照)。また、被告人甲は、原審二二回公判において、「高森地区の選挙の対応が遅れているという危機感は、当時あまり聞いていなかった」旨を、また、別件第一審の証人として「高森支部を特別重要視していたという感覚はない」旨を述べているが、右の各証拠に照らして、当時の認識を率直に語ったものと認めてよいと思われる。そもそも北部地区について、明鳳会本部が深刻な危機感を持ち、担当市議に同支部に対する強力なてこ入れの役割を期待していたのであれば、担当者の人選に当たって、それなりの配慮をしてしかるべきであったと思われるのに、このような配慮がなされたことは、証拠上到底認めがたいところである。例えば、被告人乙は、七月三〇日付検面調書において、北部地区の担当が被告人両名及び関島市議に決まった経緯について、「私は年寄りだから近い所がいいと希望して北部を引き受けたのであります。すると甲君も俺も北部に入れてくれというので希望を聞いてやったのであります、彼は座光寺出身でありまして座光寺と境を接する北部地区には顔が利くので北部を希望したものと思います。関島さんは年寄りの上蓄膿症を患っておりましたから積極的な活動を期待していませんでした、つけ足しに加えたというのが実情であります」と供述しているのであって、これによれば、ほとんど各市議の個人的な都合と希望だけで担当が決まった感がある。関島市議の人選が単に付け足しであるかはともかくとして、同人の体調等からしてそう多くの期待がかけられていたわけでもなさそうである。明政会幹事長の竹村仁實に言わせれば、乙自身にしても、当初、同人を北部地区の担当者にする予定はなかったところ、乙議員が自ら希望してきたため、好きなところに決めればよいということで、北部担当に入れたというのであって(竹村の司法巡査調書)、その後も、「乙市議は話が長いし、何を言っているのかわからん。」という支部の苦情が本部に寄せられている有様で(田中秀典の員面調書)、同被告人に対する期待の程度も知れているといわざるをえない。

次に、被告人両名が本部から頼まれもしないのに、Nのために大変な危険を冒して本件のような行為に出るというのであれば、被告人両名にそれぞれそれだけの個人的動機がなければならないと思われるが、本件においては、証拠上、その動機付けとなるべき事情にさしたるものが見出せないのである。被告人両名は、Nと親族関係になく、これまで特に親しかったという間柄でもない。被告人甲が以前の選挙のときに明鳳会建設部会の副会長や事務局長をしたことがあるといっても、それはある程度の社会的地位にある者に付けられる肩書き程度のことであり、両名とも、これまではそれぞれ明鳳会に加入し、市議団の一員としてそれ相応の応援をしてきたにとどまるといってよい。しかも、高森町は、飯田市議会議員である両名にとっては、自己の選挙区外の地区であり、果たして、このような地区で、これほどの危険を冒すかどうか、疑問といわなければならない。飯田市議会議員の田中秀典が自分のこれまでの議員としての経験に徴し、「選挙は自分の地盤を固めるために利用することが半分位であります。ですから、他の町村に行ってお金を配ることは考えられません。」(同人の前掲員面調書)と言い、また、前記の竹村が「次回の県議選に立候補のうわさのある甲さんが票を得るために現金を配ったと考えてみても、直接自分の得票に関係のない郡区の高森町の役員に現金を配るなどどう考えても不可解です。」(前記司法巡査調書)と述べているのも、けだし当然のことであろう。

もっとも、被告人乙の七月二九日付検面調書によると、「飯田下伊那地区のためになるNさんを当選させるのに少し位自分の金を出しても惜しくはないし、Nさんが代議士になれば私の仕事の事も聞いてくれますから、惜しいとも思わず金を出す気になったのであります。(中略)それと、あの高森地区は甲君の出身地である座光寺とくっついており、縁組をしている者も多いので、県議選に出る希望をもっていた甲君のためにも無駄にはなるまいと考えた事もありました。」というのである。しかし、被告人乙の経営する乙建設は、単に地元の建設業者の一つであるにすぎないし、これまでNが当選して代議士になったからといって、供述にあるような特段の恩恵に浴したという証拠もない。また、同人の当選による地元の発展を期待し、そのために自腹を切るほどの規模の業者とも思われない。このような被告人乙の動機に関する供述は、具体性に欠け、同被告人が本件の現金供与行為に出た理由を人に納得させるものではないであろう。更に、「甲君のためにも無駄にはなるまいと考えた」という説明は、いささか姑息な感を免れず、もし、被告人乙において、真実甲のことを思いやる友情があったとすれば、次の県議選を目指す同人を少しでも傷付けさせないために、本件のような共謀を被告人甲に持ちかけなかったものと思われる。これらの諸点を考えると、被告人両名のいずれについても、本件犯行に出るにつき個人的動機となるべき事情に乏しいことは否定しがたいものといわざるをえない。

(三)  本部からの同行者について

六月一〇日の議員団の会合の後、飯田市議らの協議によって各地区の担当市議が決まったわけであるが、北部地区の担当者には被告人両名のほか、関島一郎もこれに加わっており、北部地区への挨拶回りには同人も参加する可能性があった。被告人乙の七月二九日付検面調書によれば、乙、甲、関島の三名で高森支部を訪問することが決まっていたというのである。それにもかかわらず、被告人乙の自白によれば、被告人両名だけで高森支部の役員たちに現金を供与することを決めたというのであって、何故関島に相談しなかったのか、相談しないで関島が同行した場合にはどうする気であったのかが疑問となる。同市議参加の可能性は、決してあり得ないことではなく、実際の場面において現実のものとなっているのである。更に、被告人乙の七月三〇日付員面調書によれば、同被告人は、本部で関島市議と出会った際、「折角来たのだから一緒に支部回りに行けや」と誘ったということであるが、被告人両名だけで現金供与を内密に決めておきながら、密議から外した関島市議をわざわざ支部回りに誘うというのも、不可解というほかない。

(四)  本件会合の参加予定者について

本件会合に出席した支部役員らは五名であったため、結果的には、被告人両名がそれぞれ同額の五万円ずつを出し合って、現金二万円入りの茶封筒五通を用意した形となっているが、被告人らが一体何人くらいの参加者を予定してこの会合に出席したのかは、証拠上必ずしも明らかでない。所論も指摘するように、被告人両名が共謀したとされる時点において、出席者の人数を承知していたとは考え難いが、そもそも一人にいくら配るかということは、何人くらい来るかということと関連している場合が多く、何人参加するかも分からないのに、予め一人二万円という金額を決め、それを各別に封筒に入れて五人分を用意して来るというのは、実際の行動としては、いささか現実的でないといわざるをえない。被告人乙の七月三〇日付検面調書には、せいぜい四、五人くらいという予想が述べられているが、確たる証拠のある憶測でもなく、被告人甲がこのような予想に基づいて準備をしたとも思われない。また、Aの供述によると、当日一〇名くらいの支部役員が集まる旨本部には連絡してあったというのであるが、仮に、被告人甲においてこれに対応できるだけの現金入り茶封筒を用意してきたのだとすると、被告人甲は、先輩でもあり、本件供与の首謀者でもある被告人乙以上に現金を用意してこの場に臨んだということになり、これまた、不自然の感を否めないのである。

(五)  当日の訪問予定先について

六月一一日の支部訪問が、途中時間潰しに立ち寄った座光寺支部を除けば、高森支部一か所に終わっていることは、争いのない事実である。しかし、当日の訪問予定先が高森支部だけであったかどうかはすこぶる問題であるといわざるをえない。前述のように、被告人乙の七月二九日付検面調書によれば、同被告人は高森支部の担当とされ、もっぱら高森支部のみが当日の訪問先となっていたように述べられているが、同被告人の翌三〇日付の検面調書を見ると、「松川支部の人達には、高森に行くで、ついでに行くよと伝えておきました。また、上郷の井坪町議は、夜でないと人が集まらない等とあやふやでありましたから、責任を持って決めるように伝えておきました。」とあって、当時同被告人が、必ずしも高森支部に行くことだけを考えていたわけではないことは明らかである。同被告人の手帳にも、当日の予定として、「三時北部あいさつ回り」と記入されているのである。同被告人は、その後の警察での取調べにおいても、「北部方面へ支部回り」とか「北部担当」と述べ続けているのであるし、被告人甲も、七月三一日付検面調書において、被告人乙から「今夜北部の挨拶まわりどうだ」と誘われたとしているのであって、訪問先を高森支部だけに限定している様子はみられず、その他、同行した関島、池上両市議や運転手の宮崎も、いずれも当日の予定として、行く先にばらつきはあるが、複数の支部訪問を考えていたことが明らかである。このように、当日の予定が北部地区の複数の支部回りであり、「始めての支部廻りだから手ぶらで行っても体裁が悪い」ということが現金供与の動機であるとすると、高森支部にだけ現金を配る理由に乏しくなり、同支部における現金供与についても疑問が投げかけられてくるのである。

(六)  供与行為の密行性について

所論は、原判決が本件会合に終始居合せた明鳳会本部の運転手宮崎勲の存在及びその供述を無視していることを論難する。確かに、宮崎がその場に居合せたことは否定しがたい事実であり、その存在の重要性は決して看過し得るものではない。本来、この種買収事犯は、それが発覚したときの重大性故に穏密裡に行われるべきものであり、気心の知れない人物が居るところでこれを行うはずがないことはもとより、一人でも無用な人間は外して、その目に触れないようにして行うのが自然である。ところが、本件においては、関係者らの供述によれば、被告人両名は、運転手の宮崎を車中に待たせることなく、わざわざ会合の席に呼び入れ、自分たちの現金供与の現場を何ら隠すことなく目撃させたことになるのである。このようなことは、買収事犯を行おうとする者として、不自然な行動であることは明白のことであろう。宮崎は明鳳会本部の運転手であるので、被告人両名においても同人を信頼し、警戒心を抱かなかったという反論も予想されるが、この宮崎は、本件の僅か数日前に雇い入れられた臨時のアルバイトの運転手であって、被告人両名も初めて見る人物なのである。かかる人物をわざわざ現金供与の現場に立ち会わせ、現職議員の被告人甲が参会者一人ひとりに茶封筒を配って回るというのは、どうしても気にかかるところである。

買収行為の密行性の観点からすれば、本件会合に「誰が」、「何人」来るかも分からないのに、被告人両名において現金供与を計画したという点も、少なからず問題となろう。現に参集した支部役員のほとんどは被告人両名にとって、初対面の人物であった。もちろん、会合に出席している人たちが支部役員であることは十分承知していたので、現金受け渡しの事実が外に洩れる懸念を抱かなかったということも考えられるが、信頼のおける支部の幹部役員という点を強調するならば、果たしてこれらの人達に二万円程度の額の現金を配る必要があったのかという観点からの検討も問題にされなければならないであろう。後援会支部の役員たちに対する挨拶回りの席で、初対面の相手に、他の役員もいるところでいきなり現金を配るということは、非礼でもあり、人によっては腹を立てる者もいるであろう。したがって、このような初対面の場で、個々人に対して現金を配ろうとする者は、大きな危険を冒すことでもあるので、当然、配る前に、配っても大丈夫か、配って喜ばれるか、配って効果があるかを考えるのが通常であろう。原判決の認定する被告人甲の本件供与行為がこのような点に十分配慮した上であえて行われたとは到底考えられないのであって、そのような供与行為が行われたこと自体に疑問があるといわざるを得ないのである。

(七)  供与行為の目撃状況について

本件においては、問題となる会合の現場に居合せた者として、被告人両名のほか、被告人甲から茶封筒を配られたとされる五名の受供与者とその場に同席した運転手の宮崎という目撃者がいるわけである。これらの受供与者とされる者らは、いずれも現金入りの茶封筒を被告人甲から受け取ったことを認めており、原判決は、これら五名の者が揃って自白をしていることを重視し、被告人両名の自白等他の証拠と合せて本件につき被告人両名を有罪としているのである。確かに、これらの自白は、本件に関する最も重要な直接証拠といってよく、その重みを軽々に扱うわけにはいかないが、なお、その供述内容については、矛盾そごや不自然不合理な点がないかを子細に点検する必要がある。かかる観点からこれらの者らの供述をみると、状況的に一番問題となる点は、(1) 被告人甲がどのようにして片仮名のコの字型に並べられた座卓の中に入ってきたのか、(2) どこから茶封筒を取り出したのか、あるいは、(3) どのような順序で支部役員らに配ったかといった諸点であるが、これらの点について、受供与者らの自白にはかなりあいまいな点、一致しない点が見受けられるので、以下に順次検討することとする。

(1)  まず、被告人甲が現金入りの茶封筒を参会者らに配ったとされる時期は、被告人乙の終わりの挨拶のころということであり、この点は、受供与者とされる者ら全員の自白においてほぼ一致しているところである。そうだとすると、支部役員らとしても、被告人乙が最後の挨拶をしていることでもあり、また、本部から来た二人がいよいよ帰るということで、被告人両名に注意を払っていたと思われる。したがって、被告人甲が本当に現金入りの茶封筒を配ったとするならば、同被告人がどこからどのようにして座卓の中に入ってきたのかを目撃していてもよいと思われるのに、この点に関する五名の供述は、ばらばらであり、甚だあいまいなものが多い。まず、右のAにしても、「甲が金の入った封筒を渡す時に座っていたテーブルをまたいで中に入ったのではないか」という検察官の問いに対し、「それははっきりしません。しかし常識的に考えてテーブルをまたがなくても中に入れる状態なのでテーブルをまたぐというような非常識なことはしなかったと思います。」と答えているが、後に同人の描く会場図面によると(同月一六日付検面調書)、座卓と座卓は接着してコの字型に並べられているので、跨がずに中に入るためには、開口部まで回って入るか、それとも、座卓をずらせてその間から入るほかない配置となっている。被告人甲がこのような目立つ動作や行動をしたのであれば、Aとしても、当然その情景を覚えていると思われるが、それを見た記憶はないのである。同人は、同月一六日付の検面調書で従前の供述を後退させ、被告人甲が座卓を跨いで内側に出たのかどうか見ていないが、座卓は簡単に跨ぎ越すことはできるとして、跨いだ可能性を匂わせる趣旨に変わっているのである。次に、Bの供述にしても、同月一五日付員面調書においては、「甲さんは席を立つと、座卓の間を分け入ってコの字型に並べてある座卓の中に入り、座卓の内側をまわって私共の座っている前の座卓の上に一通ずつ茶封筒を置いて行ったのです。」と述べていたところ、同人が描く座卓の配置がやはり座卓同士接着していたこともあってか、同月一七日付の検面調書では、「甲さんがどこを通って座卓の内側にまわられたかは判りませんが私の常識からいたしましてあのような席で台をまたぐようなことは考えられません。」と、座卓の間を分け入ったのを見た趣旨の員面調書の供述をぼかした供述に変化させ、また、Eは、「乙さんのそいじゃまあ一つよろしくと言う声が聞こえたので、帰るなと思って前に視線を向けると、甲さんが座を立って座卓の内側に立ち、私とDさんが座っていた座卓の反対側の座卓に座っていたBさんの前に立っておりました。おそらく甲さんは座卓をまたいで内側に飛び出して行ったと考えられます。」(七月一五日付検面調書)と述べ、前二者同様、現認していないことを推測で補っているが、前二者が、常識からいって、座卓を跨ぐということは考えられないとしているのに対し、同人は、跨いだのではないかという方向での推測を述べている。逆に、Cのみは、同月一一日付検面調書において、「座卓は東、南、北にだけコの字形に置いてありました、隣り合う所を少し離してあったのでその間を通ることができました」、「乙さんの最後の挨拶が終わると同時に、甲さんが座卓の間を通って私共の席の前に茶封筒を持って出て来てまずAさんの前に置いた」旨の供述をしているのである(同月一一日付検面調書、同月一二日付員面調書)。なお、Dは、「甲さんがコの字形に並べてあった座卓の内側に出て来ておりました。あの早さでは座卓をまたいだかもしれません、ただ、座卓が合わされる所はピッタリくっ付けてなく、二、三〇センチくらい離して並べてあった気がしますから、その間に足を気を付けて入れて通れば通れないことはなかったと思います。」という、どっちつかずの供述をしている(同月二五日付検面調書)。このように、受供与者とされる五名の供述は、甚だあいまいであり、かつ、分かれているのである。

(2)  次に、被告人甲は受供与者らに配ったとされる茶封筒を一体どこから取り出したのかという点についても、はっきりとした目撃供述を欠いている状態にある。被告人甲は、茶封筒を配ったことを認めた段階でも、終始、被告人乙から渡されたものを配った旨供述しているにすぎないが、参会者の誰も、被告人甲が同乙から茶封筒を渡された情景を目撃した者はなく、さりとて、被告人乙が七月三〇日付員面調書で述べているような、被告人甲が自分の背広のポケットから茶封筒数枚を取り出して立ち上がったという様子を見た者も、これまた一人もいないのである。原判決は、「被告人甲は、乙が突然に茶封筒を畳の上に置いて配るよう喋り指示したからそれに従い配ったまでである旨捜査段階において供述しているが、前記の受供与者五名がひとりも被告人甲のこの言い分の現場を目撃していないことに徴すると被告人甲の供述も真実性のないものと言わざるをえない。」としているが、目撃者を欠く前記乙の供述についても、これと同様の問題がないとはいえないのである。

(3) 配布の順序の点についても、受供与者とされる者らの自白はさまざまであり、その供述には幾多の変遷が見られるところである。例えば、Aの自白をみると、七月七日の員面調書(二)の段階では(まだ山吹支部の堀竹一一がいたかもしれないと述べていた時期であるが、この点は、検討から除外する。)、E、D、A、B、CあるいはE、D、C、B、Aの順序で配られた旨を供述し、続く同月一〇日の上申書では、これがE、D、C、B、Aという順に一本化されてきたところ、同月一六日の検面調書では、特段の説明もなく、突如としてこの配布の順序がA、B、C、D、Eの順に変更されているのである。Aにおいて、現金入りの茶封筒を実際にもらったのであれば、最初に受け取ったのか、最後に受け取ったのかは間違えるはずもない事柄であり、この供述の変更を単なる記憶違いの訂正と理解することは困難である。Aにおいて当初自白をする際に、自分が最初に受け取ったとは言えず、この点だけ虚偽の供述をして、自分が一番最後に受け取ったとしていたところ、検察官から他の者の供述とのそごを衝かれ、真実を述べざるを得なくなったと見ることも可能であるが、そうだとすれば、検察官としても、当然供述の変更の理由を調書にとってしかるべきであったと思われるのに、そのような措置をまったく取らず、変更後の順序をさりげなく別紙の図面に書かせるにとどめ、順序が変わった理由については一言も供述をさせていないのである。これらの点からみると、この供述の変更は、他の受供与者とされる者らの供述と合せるために、検察官が誘導して変更させたものと認めてよいように思われる(別件控訴審における同人の被告人供述調書参照)。

また、Eの七月七日付検面調書をみると、同人は、参会者として堀竹一一の名前を挙げ、堀竹もまた現金を貰ったと自白し、配った順序についても、堀竹を加え、C、B、堀竹、E、A、Dと述べているのである。この点に関するE供述は、次第にあいまいとなり、最後には、堀竹がいなかったことははっきりしていると述べ、供述を一八〇度転回させているが、それにしても、一旦は現実に出席していない堀竹の名前をあげて、金をもらったと述べているのである。Eのこのような自白は、記憶があいまいな場合に厳しく追及されると、人を冤罪に陥れるような結果となる危険な供述をもしかねないことを示しているのである。

なお、ここで、Cの受供与事実についての自白の変遷について言及しておきたい。前述のように、Cは、任意同行の段階で否認をしていたものの、逮捕後間もなく自白し、その後、七月一二日に否認、一三日から一五日まで自白、一六日から二〇日まで否認、二一日に再度自白に戻るといった具合に、三度の否認と三度の自白を繰り返しているのであるが、何故同人がこれほどまでに否認と自白を繰り返したのか、慎重に考える必要がある。確かに、真実犯したが故に事実を認めたが、他の供与者あるいは受供与者に対する義理立てから、弁護人のアドバイスもあって、心ならずも否認に転じたのだという説明も可能である。しかし、法律知識に詳しいわけでもない純朴な性格のCが、実際に罪を犯し、しかも、予想される刑が罰金ですみそうだという場合に、一旦自白をしたならば、これを維持し、反省悔悟の態度を示し続けてもよいと思われるのに、同人において、ここまで再三にわたって自白を翻したのは、いかにも異常であり、本当にやっていないからではないかという疑いを消し去ることができない。このような観点から同人の検面調書を吟味すると、七月一二日の二度目の否認の供述とその理由に関する同月一四日の供述は、いかにも不可解なものというほかない。つまり、この否認の要旨は、「他の四人の出席者は金を受け取ったが、自分だけは受け取っていない、自分は受け取る立場にはなかった、受け取らずに返したのではなく、自分の所にだけ茶封筒を配ってよこさなかった」というのであり、誰が聞いても信じ難いような内容となっている。そして、何故このような供述をしたのかについての弁明も、「その金は私共から請求したものでないし、私の方からすれば勝手に相手から配られ、強引に押し付けられたものでありましたし、直接手を出して手から手に受け取ったものではありませんでしたから、法にあてはまらない言い逃れができるのではないかとも考えたので、もらってないなどと言い張ってしまったのであります」というのである。いかに法律的知識がないからといって、現金をポケットに入れてしまえば、直接手を出して手から手に受け取っていなくとも、罪を免れることができないことは、十分承知しているところであろう。

同人の言わんとする弁解の本旨は、否認調書である七月一二日付員面調書にあるように、「弁護人から接見の際に、事実金を受け取っているのかと聞かれたので、受け取っていないと言ったところ、それならもう一遍検事に調べ直してもらえと言われた」ということにあり、この理由の方が自然であるように思われる。つまり、右の経過から検察官の取調べを申し出てその面前で否認したところ、その時点では受供与者とされる他の四人の者がいずれも自白をしていたときでもあり、否認しているのはCだけだというので、同人自身のことはともかく、認めている他の者についてまで否定をすることは認めてもらえず、その結果として、Cだけが貰っていないという、あのようなおかしな否認調書になったのではないかと推察される。そして、このようにして作成された同人の否認調書が証拠価値に乏しいものとなっていることは明らかであるが、それと同時に、この否認調書は、所論指摘のような検察官の被疑者らの否認に対する取調べの態度をも物語っているのである。

(4) 以上、受供与者とされる者たちの現場における目撃状況の問題点について検討してきたが、本件で唯一の第三者たる目撃者宮崎勲の供述について最後に検討することとする。

所論も指摘するように、同人は、本件会合の場に終始居合わせた者であって、その存在と目撃状況についての同人の供述がどのようなものであるのかは、重要な意義を持つものといってよい。問題の状況に関する同人の七月一七日付員面調書の内容は、次のとおりである。

二人の話は五分位づつの一〇分位で終わったと思う。そのあとすぐ乙さんが事務所の人一人づつに名刺を一枚づつくばり始めた。甲さんもこれにつられたようにやはり乙と同じようにして自分の名刺だかを事務所の人たちに一人づつくばったと思う。なぜこのときくばったものが名刺だったかというと、議員の方は「よろしく」と言っており、事務所の人たちはそれぞれ頭を下げ、「名刺がないけど」などと言っていた人もいたからである。くばっているところをはっきりみとどけた訳ではないが、名刺大くらいの白いものをこのときみている。名刺は確か相手の前の畳の上に一枚一枚置いていた。確かこのときは名刺だけだったと思う。(中略)

問  茶封筒はみなかったか

答  私は見ておりません。どんな茶封筒か知りませんが、私がみていた限りではそのようなものについてはみておりません。

問  普通の茶封筒と同じくらいの大きさの茶封筒はみていないか

答  そのようなものも見ておりません。白でも茶でも封筒類をこの場でこのときはみていません。

同人は、これと同趣旨の供述を原審においても証人として供述しているのである。同人は、約一か月あまり明鳳会本部の運転手として働いており、その意味では、被告人サイドの人間であり、特に、警察での取調べを受ける前にN事務所で事情を聞かれているので、その辺を考慮して証拠価値を吟味する必要があるが、この目撃証人が現場で茶封筒の授受を見ていないと供述していることは、やはり、相当の意味を持つものといってよい。同人は、七月一七日の取調べの後、同月二四日に、検察官の取調べを受けた際には、その供述を若干後退させているが、これとても、検察官の理詰めの追及によって、従前、甲が帰り際に一人ひとりに名刺を配っていたと話していたが名刺だとはっきり言える証拠はないという程度に後退させたにとどまり、それが茶封筒であったと供述の趣旨まで変えたわけではないのである。

五 まとめ

本件においては、被告人両名の自白のほか、受供与者とされる者たちの多数の自白もあり、その中には逮捕前の取調べの際の自白も含まれているのであって、原判決がこれらの供述証拠に任意性、信用性を認め、これらに多くを依拠して原判示の事実誤認に至ったことは、一概に責められないものである。しかし、以上検討してきたところから明らかなように、これらの自白内容を子細に検討すると、幾多の事実認定上の疑問点を含んでおり、信用性に疑問があるといわざるを得ないのである。もとより、個々の疑問点、例えば、被告人両名が運転手の宮崎のいるところで現金の供与などを行うかといった点については、それぞれそれなりの説明が可能であろうが、先に検討を加えた多くの疑問点を積み上げた上で、本件をめぐる積極、消極の全証拠を虚心に考察するとき、やはり、果してこのような行為を被告人両名が共謀し、実行に移したという事実があったのであろうかという疑問を払拭しきれないのである。結局、本件については、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従い、被告人両名の犯罪の証明がないものとして扱うのを相当とするのである。したがって、弁護人らのその余の控訴趣意について判断するまでもなく、被告人両名につき供与罪の共同正犯の成立を認めた原判決には、事実の誤認があり、判決に影響することが明らかであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。

なお、被告人両名に対する本件被告事件は、立候補届け出前の選挙運動をしたことをも、公訴事実に含むものであるが、本件のような立候補予定者を支援する後援会支部のごく限られた幹部に対する選挙情勢の説明、激励、支援者拡大に関する指示等は、その内容に投票取りまとめの依頼の趣旨が含まれていたにしても、適法な後援会活動ないしは支援者間の内部的な準備行為の範囲内にとどまるものと解するのが相当であり、前述のように現金供与行為が認められない以上、事前運動には該当しないものというべきである。

よって、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により、原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により、更に次のとおり判決する。

本件公訴事実は、「被告人両名は、昭和六一年七月六日施行の衆議院議員総選挙に際し、Nが長野県第三区から立候補する決意を有することを知り、共謀の上、右Nに当選を得させる目的で、いまだ同人の立候補の届出のない同年六月一一日午後九時ころ、同県下伊那郡高森町〈番地略〉明鳳会高森支部事務所内において、

第一  同選挙区の選挙人であるAに対し、同選挙に立候補する右Nのため投票並びに投票取りまとめ等の選挙運動をすることの報酬として、現金二万円を供与し、

第二  同Dに対し、右同様の報酬として、現金二万円を供与し、

第三  同Bに対し、右同様の報酬として、現金二万円を供与し、

第四  同Eに対し、右同様の報酬として、現金二万円を供与し、

第五  同Cに対し、右同様の報酬として、現金二万円を供与し、

それぞれ一面立候補届出前の選挙運動をしたものである」というのである。

しかし、前記のとおり、被告人両名において右犯行を犯したことの証明がないから、刑事訴訟法三三六条により、無罪の言渡しをする。

(裁判長裁判官早川義郎 裁判官小田部米彦 裁判官髙木敏夫は、転補のため署名押印できない。裁判長裁判官早川義郎)

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